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違和感を吐き出せるように

おかしいな、と思うことを口にすると周りから煙たがれるので。

やる気が無いと言われても。

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猫よりもやる気が無い僕ですが、先日気になるツイートがあったので色々と思うところがあり、こちらに書いておくことにしました。

あくまで自己分析的な要素が強く、他の人が決して理解し共感できるような内容では無いし、自身の思考をまとめきれてもいない散文ではありますが。

 

 

 

「やる気」と言われるものについて

 

 

 

 

 

僕は今まで就職していた会社で、よく「やる気が無い」と上の人から怒られました。

今でこそ「働くのにやる気なんて出るわけないだろ!」と声を大にして言えますが、少なくとも新卒で入社した当初なんてのは結構「頑張ってやってやろう」と思って仕事はしていたんですよ。

実務がそれに伴っていたかどうかは別として、気持ちにおいては。

 

しかし仕事すれど仕事すれど「やる気が無い」と、次の会社に転職をしても同じようなことを言われます。

 

「新人らしく頑張ってやってやろうって気持ちは無いのか」

「お前は何をしていてもだるそうでやる気が無さそうに見える」

「やる気が無いなら辞めてまえ」

などなど・・・

 

僕が正社員として働いている間に、「やる気」で怒られた回数は数え知れません。

 

 

 

やる気の正体とは

 

「やる気」の正体は「快感への渇望」です。過去に味わった「出来た!という達成感」や「誰かから褒められた、喜ばれた嬉しさ」で出来ています。

 

このやる気の正体が科学的に証明されたものなのか、また実際に世間で言われているものなのか真偽については不明です。

しかし仮に事実なのだとしたら、僕はこのどちらの渇望も持っていないと言えます。

全く持っていないとは言いませんが、割合としてはかなり低い。

 

1.「出来た!という達成感」について。

自分がもっとも「やる気」が出ているであろう遊ぶことについて、子供の頃はレゴブロックやガンプラが好きで、大人になってからもマインクラフトで建物を作ったり、相変わらず何かを作って遊んでいることが多いです。

しかしその一連の遊びにおいてもっとも快感を感じているのは「作っている最中」であって、完成の達成感というのはあまりありません。

レゴブロックでは完成させてはすぐに壊して違うものを作っていたし、ガンプラは完成したら箱に戻して放置、マインクラフトではゲーム内の他ユーザーに作った建物は売ってしまったり。

完成品には全く興味がありません。

むしろ完成というのは快感の喪失でしか無いのです。

 

2.「誰かから褒められた、喜ばれた嬉しさ」

人に褒められたり、喜ばれるというのは大抵が完成した結果に大して行われるものです。

それが社会に出ればなおさら過程よりも結果のみが重視されます。

しかし自分においては完成とは快感の喪失であるし、なによりも完成というものが自分が満足したかどうかの一点にあり、そこに他人の評価が入り込む余地がほとんどありません。

他人の評価が全く自分の「やる気」に対して効果を発揮しないのです。

僕が好むもの、車・バイク・インテリア・カメラ・マインクラフトなどなど・・・全てにおいて、他人に評価されたくてやっているとは言いがたい。

誰々がこう評価しているからこうしよう、という動機が働いたことがありません。

これにおいては普段の友人とのバイクのカスタムに関する会話などで「やる気」について考える以前から感じていたことではあります。

 

 

 

どちらもやる気に繋がらない

 

自分が「やる気」を感じることの結果に対して、他人から良く評価されて悪い気はしませんが、かと言って悪く評価されても特に気にならない。

良くも悪くも他人からの評価や達成感が、行動の原動力とはなっていない。

そして、僕の「やる気」を引き出す快感は他にあるのではと考えました。

 

つまり全ては自分がやりたいかどうか、過程において自分が快感を感じることができるかどうか。

 

ツイートに書かれた「快感への渇望」と、自分自身の望む「快感への渇望」との相違から考えるとそんな気がする。

しかもやる気があるように見せることも下手くそで、他人から見るとすぐに分かってしまうのだろう。

すごく自分勝手で、そして自己中心的な人間なのです。

 

そう考えると仕事において「やる気が無い」と怒っていた人たちはある意味で正しかったと言える。

僕の「やる気」の結果が社会において評価されるレベルではない。

そこが僕が怒られる理由なんだろう。

もし僕が全く他人の評価を気にしないで自由気ままにやっていても、その完成品さえ素晴らしいものであったなら、きっと社会において怒られることは無かったか、もっと回数は少ないものになっていたかも知れない。

 

しかし自分自身の「やる気」について考えた結果が、自分は無能で終わるというのはなんとも悲しい話だ。